リルケを読む―健気な高校生が天才の肌に触れて殺されるまで―

ドイツの天才詩人リルケについて解釈していきます。支離滅裂な文章を面白おかしくしっかりと書いていきますので、どうぞお読みください。

リルケを読む 0

いまだ、誰かの手にある本を想う

頼んだ本が届くまでの期間は、少しの活字も読みたくなくなる。それは読んでいる本に対して無礼な振る舞いをしないためである。そしてこの期間は、恋人が見せた視線の意味を考える時間のような、幸せで少し苦しい思いに似ている、と私は思う。

図書館で朝食を

―おや、あそこの棚に、やけに分厚い本があるな。冷たいアスファルトで休んでいる雨水たちのような色をしている。うん、フランス文学の棚だ。『失われた時を求めて』だったらもう少し厚いかな。近づいてみよう。ああ、久々の図書館の床だ、座って本を読む図書館で、やけに私を歩かせる、灰色のカーペットだ…見えてきたぞ。『ランボー全詩集』か!。詩…あんまり詩は読んだことはないが、こうも美しく分厚いと、手に取りたくなってしまうじゃないか。その分厚さはまるで、アフロディーテのように…おお、ずるっと青を抜き取ると、確かなる紙の匂いが重く私の手にのしかかる。近くにあった椅子に腰掛けて、いざ読んで見る。本の肌、私は言葉が鮮明な黒となって綴られているその白く滑らかな肌を、私はいつまにか撫でていた。それは愛おしい本が、私に愛おしく応えてくれたときの、なにもかもを中断させてしまう悦びの震えであった。そして、それは詩や小説を読む人間が、それらに感極まったときにしてしまう深呼吸のようなもの…そんなとき、入口からK君が入ってくるのが見えた。本が閉じられる音をしっかりと聞き届けたのち、私は親愛なる彼にいつもより溌剌さを加えたい気分を抑えて、ひかえめにおはよう!と口を開いた。K君はいつもどおりのK君だった…そうだ、そうだった、今日は皆でプレゼン発表をするためにここに来たんだったな。K君!一緒に図書館回らない?、集合時間までまだ時間あるからさ。私は少し軽くなったように感じる本を元の位置に戻した。K君、この本面白いよ。と、その本の機嫌をとるような言葉を吐いて、私はK君と図書館散策をし始めた。集合時間まで、20分あった。―

以上は私が『ランボー全詩集』に出会うまでのことである。私はこの後、『ランボー全詩集』を格安で入手することができ(図書館のものと装飾が異なっていた。私が所持している『ランボー全詩集』、未成熟な赤色をしている。)、テスト期間中に欣喜雀躍として読むことができた。そして、まだそれを読み終えてないうちに私の目にひどく映るものがあった。それこそが『リルケ詩集』である。これは私だけの経験かもしれないが、そんな風に、偶に本がこちらを呼びかけるのを感じてしまうのだ。あるとき、古本屋で『砂の女』を見つけてから早一年ぶりぐらいの、本からの呼びかけを感じた私は、『リルケ詩集』を読むしかない、いや、読むべきだ!という静かな激情に襲われ、あれほど楽しみに歓んだ『ランボー全詩集』を、それでも未練たらしく机上に置いて、ここ最近はあまり動いていなかったドイツ文学の本棚から吸い込まれるように『リルケ詩集』を抜き取ってしまった!。怠惰で引き際が良くない私が、この私自身の手によって本を本棚から抜いてしまえば、読み切るまで戻すことはないというのに、私は衝動に逆らえず、かの本を手に取ってしまったのである。そして、そうなった以上、私はリルケを読むしかなくなるのである…

スタートラインとしての白線の砂地との境界線の是非を問う

以上がなぜ、リルケを語るのにランボーが現れなければならなかったかの理由である。私は『ランボー全詩集』に対して浮気してしまったのである…そして『リルケ詩集』は、今、私の手のひらでほくそ笑んでいる…しかし私はかの魅力に逆らえないでいる。ああ、このことを私は悲しくもなんとも思っていない、むしろ誇らしく思ってしまっている。そしてこのことが、何よりも嬉しいのだ…(ちなみに私は谷崎潤一郎を読んだことはない)。
さて、随分と前置き(?)が長くなってしまった。まだ、私が弁明すべきところは数多くあるが、そろそろ『リルケ詩集』を読んでいこう。

岩波文庫、高安訳『リルケ詩集』を少し読む

リルケ詩集』掲載中に読んでいく。できれば私なりの構成でいきたかったが、本に忠実に行かせてもらう。

「貧困と死の書より」

「貧困と死の書」より

おお主よ、各人に「彼自身の死」を与えたまえ。
各人が愛と意味と、ぎりぎりの悩みとを経験した
そういう生から生まれる死を

なぜなら私たちはただ果皮であり果葉であるにすぎません。
各人が自分の内に持っている偉大な死、
それこそ果実であり、すべてがその周りをめぐる中心です。
この果実あるがために、少女は少女となり、
しなやかな若木のように琴の響きの中から伸び育ちます、
そのためにまた、少年は男になることにあこがれます。
そうして女たちは育ってくる者らのために、
誰も聞いてくれない不安の優しい聞き手となります。
そのためにまた観られた物は、とうに消え去った後にも、
永遠の物のようにとどまるのです、―
そして造型し建造する者は
この果実あるがために世界そのものとなり、氷と結び露と置き、
風となってその果実にそよぎ、陽の光となって降りそそぎました。
この果実の中へは、心臓のすべての熱、
脳髄の白熱が染み込んでいきました―、
ところが今あなたの天使たちは渡り鳥のように群れて過ぎ、
私たちの果実がすべてまだ青いのを見出すのです。
*↑(前半 筆者)↓(後半 同)
都会はしかし自分のことしか考えない、
そして一切を自己の流れの中に引きずり込む。
うつろな朽木を倒すように動物たちを打ち砕き、
多くの民衆を劫火の中に消尽してしまう。

そして都会の人間は文化の奴隷と化し、
平衡と均斉を失って深い谷間へと転落し、
蝸牛の這った跡にも似たものを進歩と称し、
以前ゆるやかに走っていたところを目まぐるしく駆け、
娼婦のような感じで、きらびやかに飾り立て、
金属やガラスをやたらとがちゃつかせる。

毎日何かしら詐りに愚弄されているようで、
彼らはもう彼ら自身であることができない。
貨幣は増大する一方で、ほしいままな暴威をふるい、
東風のように強大だが、それに引きかえ
彼らは小さく、吹き上げられて今にも叩きつけられそう。
酒や、また動物と人間との体液のあらゆる毒素が
はかない仕事への刺激を与えてくれるのを待ち受けている。

 

岩波文庫、高安国世訳『リルケ詩集』p39〜42

まず注目すべきなのは〈彼自身の死〉と〈果実〉、〈主〉と〈天使〉の関係であろう。〈彼自身の死〉だけでは、単に実存的な響きを帯びているだけであるが、それが〈果実〉と言い表されることで、〈彼〉は〈人間〉という存在的な縛りから解放されていることを私は読み取る。それは〈受肉〉の縛りからの解放といっていいだろう。醜い動物的な欲望の塊、もしくは存在してしまって快楽や苦痛を感じるしかない〈肉体〉であった人間は、〈主〉によって、〈生〉の躍動たる熟れゆく〈果実〉として〈与えられ〉るのである。そして〈果実〉は〈主〉によって〈与えられ〉た〈魂〉であるように思える。そして、この〈果実〉は、〈イデア〉を観るものである。総じて、この詩の前半は、古代ギリシャ的な趣が強く観られる。そして、前半の最後では、に数回決まった〈季節〉(時間)に決まった〈場所〉(空間)にいく渡り鳥のような〈天使〉が、私たちの〈果実〉がまだ未熟なものであることを、〈熱〉を懸命に持ち続け、〈愛〉と〈意味〉と、〈ぎりぎりの悩み〉を経験をする私達のことを、見出して、「何処かへ飛んでいく」。この天使は、青い果実である私たちを見て、生まれ(時間)育ち(空間)が違う人たちのところへ、その〈果実〉を見に行くのである。
後半になると文明批判のようなものが見られる。リルケは「文明(〈文化〉」という「リヴァイアサン」に完全に一体になれない人間の不安と孤独を描出するのに優れていたので、ここではそれが、ある意味で「逆」の形で現れていると言えよう。
後半での〈都会〉は、〈文化〉の代表例のように思える。私たちは「社会〈文化〉」によって価値付けられ、社会によって消費されていく。資本主義社会の中では、私たちはひとつの労働力として見られ、いかに社会の中で、その社会のために働けるかが評価される。そのように私たちは社会によって評価され、社会のために社会に消費されてしまう。しかし、その社会で生きる人間は、その社会を「リヴァイアサン」といい、「平和〈奴隷〉」の象徴としている。そのような〈主〉ではなく、〈文化〉によって〈生〉を受けた〈奴隷〉のもとには、〈天使〉は見に来ることすらもないのである!。〈少女〉や〈少年〉、〈女たち〉は後半で、〈蝸牛〉や〈娼婦〉になってしまっている。〈愛〉と〈意味〉と〈ぎりぎりの悩み〉を経験するものはそこには居ない、彼らは社会(〈詐り〉)に愚弄されてしまっている。彼らは〈果実〉ではなく、〈蝸牛〉として、〈娼婦〉として〈生〉を受けてしまっている。そこには前半で観られた美しい「成熟」は観られず、代わりに、醜い動物的な欲望の塊、もしくは存在してしまって快楽や苦痛を感じるしかない〈肉体〉であった人間が、毒素を持った体液によって動いているのみである。
この詩は、逆側から読んだほうが「わかりやすい」と思う。しかし、もしリルケのように読んだとき、この詩の〈天使〉の存在がありありとわかるのである。実際、リルケの詩にはよく〈天使〉が登場する。この詩を読むときは、〈天使〉の動向に注目してほしい。前半の最後で一瞬にして現れ飛んでいく〈天使〉の存在をその動きを、私たち〈人間〉がしかと、見なければならない。

「恋する女」

そうです、私はあなたをお慕いしているのです。私はもう
私がわからなくなりながら私自身の手から辷り落ちてゆくのです。
あなたのお傍からくるのでしょうか、何か
真剣に迷わず脇目もふらず、私の方へ迫ってくるものを
防ぎ止めるすべもなく。
↑(上 同)↓(中 同)
......あのころ、ああ、私はなんとまだ私一人で安らっていたことでしょう。
私を呼ぶ何物も、私を裏切る何物もなく、
私の静かさは石の静かさでした、
その上をさらさらと小川の水が流れるような。
↓(下 同)
けれども春が来たこの幾週、何かしら
無意識の、ほのかに暗かった年月から
すこしずつ私を引き離してゆくものがあります。
何かが私の貧しいあたたかな生命を
だれかは知らぬ人の手に渡してしまったのです、
昨日までの私が何であったかも知らない人の手に。

 

同p45〜46

リルケは人間の心情の機微を、克明に描き出す。そこに全くしつこさというものはなく、むしろそれは、私たちの心に絡みつく細かい繊維のようなものである。
この詩を読むときに注意せねばならないのは、この詩が緩急がかなり激しくついたものであるということである。しかし、ものが転がるような緩急ではなく、海の波のような緩急である。
「上」において、すでに〈女性〉が自分が動揺していることを自分自身で認め、その心情をそこにはいない〈あなた〉と〈私〉に発露していることがわかる。その動揺は、〈私〉が〈私〉であることが発覚してしまったことに対する〈私〉の動揺である。この〈私〉という存在が、「誰か〈あなた〉」によって揺るがされる、〈私〉が〈私自身の手〉から〈辷り〉落ちていくことに、落とされていくことに動揺しているのを、〈私〉が感じているのである。
「中」において、〈女性〉は自分の「内」をみる。しかし、そこには「一人で安らっていたでしょう」と、〈一人〉がついてしまう。〈あなた〉によって私は〈一人〉であることが知ってしまったのである。〈私〉を〈呼ぶ〉、〈私〉を〈裏切る〉ものはなかった、呼ばれたことがないならば〈私〉はないのである、裏切られたことがなければ〈私〉という存在は発覚しないのである。〈水〉の流れの中に、すべては溶けていたのである。それは「未分化」の状態である。しかし、そこに〈辷り〉が発生する。現実的に、〈辷り〉は私たちにとって、自分が「立っていた」ことが「知らされる」契機となるように。
「下」において、〈私〉の〈貧しいあたたかな生命〉とは、「未分化」に留まっていた私の未熟さのことであろう。誰も必要としない、誰からも必要とされないような世界、〈無意識の、ほのかに暗かった年月〉を生きていた〈私〉は、〈貧しい〉けれども〈あたたかな〉、〈生命〉であろう。しかし、そのことを〈私〉は「自覚(発覚)」できた。しかし、一方で、「他人〈何か〉〈誰かは知らぬ人〉」の存在が発覚してしまった。〈私〉は〈私〉となった、しかし、そうしてくれた〈あなた〉は、〈私〉でないのであれば一体〈何〉であろうか?この詩の解釈で最も難しいところは、「下」における〈何〉である。これは実は〈私〉かもしれないし、「他人」かもしれない。ここではそのように両義的に解釈するのが良いと私は思う。これが、この詩の全てがそこに凝縮されているような、緩急で言うところの波の頂にして海底にへばりつく津波のような、最後の一句につながるのである。「昨日までの私が何であったかも知らない人の手に」これは下のように括弧で区切れる。
「〈昨日〉までの〈私〉が〈何〉であったかも〈知らない〉〈人〉の〈手〉に」
〈昨日〉と〈無意識の、ほのかに暗かった年月〉、「上」の〈私自身の手〉とここでの〈手〉、〈知らない〉と〈辷り〉、そして〈私〉と〈何〉、この最後の2つはデカルト的に明確だったはずの〈私〉が〈何〉に包含されているようでされていないような、絶妙な両義的な解釈がされるべきであろう。ここにリルケ特有の全体と個人の関係、個人が全体へと感じる不安のようなものが現れている。
最後に、この詩を1,2,3と分けずに「上」「中」「下」と分けたのは、この詩の構造(高安によってのものといえども)的に、「下」の次に「中」が来ることが可能だと、私が感じたからである。そう考えると1,2,3,2はおかしいし、というより、詩全般を作者でもないのに無闇に数でぶつ切りにするのは、詩を殺してしまうことになると考えざるを得ない。
また、一概に見れば、この詩は初恋に戸惑う女の心情描写であると言っても良いと思われる。だが、それ以上に読み込む事が可能な、構造的な隙間が読み取ることが可能であろう。芥川龍之介の作品はそのような構造的な隙間がよくあるので、私は嬉々としてそこに入り込んでしまう。文学作品、特に詩に対しては私は全くの素人であると断言できるが、私のような解釈も、あってよいのではないかと思う。

区切りとしての終わり、1,0ではなく「下」として。

今回はリルケの2つの詩を扱った。時間的な制約があり、あまりにも少ない作品を扱うことに終わってしまうことが悔やまれる。なので、私は「リルケを読む」を連載していこうと思う。今回はその始まりとさせていただこう。
元々、これは私がメルカリで衝動買いしてしまった(かの『ランボー全詩集』のように!)彌生書房、富士川訳『リルケ全集1〜6』が届くまでに書いていこうとしたものであった。冒頭の「いまだ、誰かの手にある本を想う」はそのような背景あって書いたものである。また、自分でもこのような形式で文章を書くのは中々面白いと思うので(読者の反応を乞う)、続けていきたい。冒頭に日記的なものを、そして詩に付いて書くのは、かなり詩人らしいと私は思う。
また、岩波文庫の『リルケ詩集』を読んで、私はフランスの哲学者E.レヴィナスリルケは相性が良いのではないかと思った。リルケにおいても〈全体〉や〈顔(特にこれは頻出する)〉などといったレヴィナスの概念と通じるようなところが数多く見られたからだ。これについての分析をいつかは、この連載の中で行いたいと思う。
今回用いた高安訳の『リルケ詩集』は抜粋のものも多く、このような場で「読む」ためにはあまり向いていないと思われる。やはり『リルケ全集』を用いたほうが、リルケ自身の作品により直接触れることもでき、正確に読めると考えられる。しかし、だからこそ、彌生書房『リルケ全集』7を入手できなかったことが非常に悔やまれる。それはリルケの生涯と日記についてのものだからである。
最後に、この、noteという場を用いたことについて書いて終わりとしよう。先生方によると、どうも私が書いた文章を結構な数の先生方が読んでくれているとのことらしい。しかし、私が先生方に提出するような文章は真面目なものばかりである、私はおちゃらけた文章や倒錯したような文章が本当は得意なのである。この場は、先生方に私のそのような面を表現するために使いたい。もちろん、このnoteという万人に開かれて場において、私の荒唐無稽滑稽周到な文章を読んでもらって、色々と暴いてもらうというのも私の希望の一つである。そして、真っ直ぐ正しくひねくれるために読書家になったような私が、存分に真っ直ぐにひねくれて、自分の率直な思いを表現する場所としても機能することを、そうなるしかないことを願っている。

 

評価や感想をお待ちしています。ここまで読んでいただきありがとうございました。